四半世記

感想文ページ(ネタバレあり)

ナチュラル・ウーマン(松浦理英子著) 感想

「最高に素晴らしい恋愛をしていたはずなのに」

概要

松浦理英子著「ナチュラル・ウーマン」は、1987年に出版された。

現在は河出書房新社から新装版として文庫本が出ている。

本作品は三つの短編から成っており、「いちばん長い午後」「微熱休暇」、そして表題作の「ナチュラル・ウーマン」である。三つの短編は容子という人物を主人公としている点が共通している。ただし、時系列はナチュラル・ウーマン→いちばん長い午後→微熱休暇となっている。

 

ナチュラル・ウーマンは、おそらく多くの人が作者の最高傑作とあげるだろう作品だし、ファンである私もそう思う。

一般的にいえば、松浦理英子という作家は性器結合主義を批判するという立場の人であり、ナチュラル・ウーマンという作品は男女間の性器を結合する形の関係の絶対性を否定するための、女性同士の性器を用いない性行為を伴った関係を描いた作品である。

この作品は恋愛というもの自体を否定するところまで先鋭的でない。男女間の、いわゆるセックスを伴う関係でなくとも恋愛関係が成立するという話になる。そして、普通の恋愛小説として読んでも自然に、ナチュラルに読めるという部分、恋愛描写が完成されていることこそが、私が思うこの作品の傑作性なのである。

2018年現在では恋愛という形をとらないという主題はそれほど真新しさはないかもしれないし、作者としても恋愛については30年以上前に書いたこの作品で語りつくしているためそれを直接的な主題とすることはないだろう。

だからこそ、この作品の洗練された無駄のなさがとても眩しくみえる。

 

一番長い午後

「あなた相手に暴君を気取ってみたくもなるわよ。ところが罠なのね。」

ナチュラル・ウーマン」全体において一番高いウェイトを占める関係性は、主人公容子と花世の関係である。一番長い午後は、その花世と別れた後にスチュワーデス勤めの夕記子との肉体寄りの関係の話となる。

 

容子と夕記子の関係は、夕記子が支配者に立つ、支配被支配がはっきりした関係にみえる。物語は夕記子が生理の経血で汚したシーツを容子が洗うところからはじまるし、そうしている間も結構厳しい言葉が投げかけれられる。

この本を最後まで読んでからもう一度一番長い午後を読むと、このエピソードは容子という人物の描写を補完するために存在するのだと気づく。

夕記子は、「あなたは人に奉仕しているというスタイルに昂奮するんでしょう」「自分を何だと思っているの?無垢な仔犬だとでも思っているの?」「知ってたのよ、あなたが私を見下していて、少しも好きじゃないということは」という具合に容子を語る。多少バイアスがかかっていたとしても、これが真実を含むというのが二週目にはわかる。

夕記子が容子とどうなりたいのか、というのは作中では語られることはない。恋愛したことがないししたいと思ったこともないという夕記子の言い分を信じるなら、別の人に恋愛感情をもっている容子に、その眩しさに苛立ちを覚えるという心情なのだろうか。

 

容子は夕記子とのプレイにおいて、元カノの花世との思い出である肛門を使った行為をすることで、次の由梨子との関係に進んでいく。

読み返せば読み返すほど、最後の2ページくらいの夕記子の心情がやるせなく思える。恋をしていれば二人でもっと沢山のことを愉しめただろう、という容子の独白も。

 

微熱休暇

「わかったわ。あなたはインポよ。」

微熱休暇は、夕記子との関係がおそらくひと段落したあとに、容子が想いをよせている由梨子と旅行に行く話である。

由梨子と肉体関係が生じるかもしれないという段階で、思い出すのは花世とのことであり夕記子との関係についてはあまり言及されないのがまたなんとも。

仕事でえろ漫画を描く、エロ漫画先生の容子が肉体関係をもつのに中学生男子のようなうろたえをみせる様子はなかなか面白いし、セックス直前の恋愛感情が暴発しような描写も読んでて新鮮な気持ちになる。

「あんまり好きだとできないものなのよ。」という容子のセリフは、これまでの恋愛遍歴から出たものでもあるし、恋愛関係における性行為というものを読者に問うものでもある。

時代的にはそろそろあやしくなっているが、男女関係においては恋愛と性行為と結婚はある程度強い連結性があり、セックスはある程度の年齢になったらするものだと思ってたというように描く古典も多い。ここで同性関係というのが生きてきて、性行為が必要なのか、そもそも性行為はなんなのかという問いかけがひきたつのだ。

物語的には新しい関係の可能性を示して終わる。雰囲気的には今後性行為について快感の経験がある容子とそんなに否定的でない由梨子ならするに決まってるでしょと思ってしまうけれども、するにせよしないにせよしてから考えるにせよ、一歩立ち止まることに大きな意味がある。

 

 

ナチュラル・ウーマン

「あなたにしか感動しない。」

最後に、容子と花世の関係が語られる。

見るからに両想い、体の相性もいい、そんな最高に素晴らしい恋愛はどうして終わってしまったのか。それをはっきり解説している感想は私はまだ見たことがない。

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表題のナチュラル・ウーマンはこの歌がモチーフとなっている。「私、あなたを抱きしめた時、生まれて初めて自分が女だと感じたの。」と花世は語る。

ここが二人の大きな違いで、容子はたまたま女に生まれてついでに女をやっているだけという考え方だが、花世は自分の性別への執着がある。男性経験のある自らの膣を容子に触らせない、性器を触り合う性行為を男と女ごっことするなど、性別から生じている社会規範を意識する。

「あなたは空を飛びかねないほど自由で、私は愚鈍に地べたを這いずり回っていて。」と別れ際に花世がいうセリフはこのことを示している。

しかし、この違いは大きな違いであれど決定的な理由ではないのではないか。肛門での性行為という自分たちに適った行為形式を発見したのに、性別観の違いだけで駄目になってしまうのか。

 

口に出してしまうと陳腐だけれど、それは結局容子の自覚していないパーソナリティにある。

一番長い午後で夕記子がいうように、容子という人は可愛く人をひきつけ、暴君を気取ってみたくなるが、結局自分が踊らされているということを無自覚にできるのだ。

それは花世との関係で、「私が百回好きだと繰り返したって、あなたは信じないんでしょう?」「信じなきゃだめなの?」というやり取りや、何度苦痛な目にあわされても花世に寄っていき受け入れてしまう性行為描写にあらわれている。

おそらく、容子は鏡のようなもので花世は容子をみることによって自分を定義することができたのだと思う。しかし、あなたにしか感動しない、というくらい花世に入れ込んでいる容子は花世になにをされても肯定をしてしまう。その全肯定は、ある面では容子の愛情であるがある面では欲望の押し付けである。だから夕記子は「あなたが優しいなんて思わない」と言い花世は「あなたに好かれたってしょうがない」と言う。

しかし一方で、花世も容子の問う本当のセックスとか本当の好きというものに対する回答をもたない。実際にこうすれば良かったというのはたぶんなく、剥き出しの個性が性行為を通じてぶつかり、強烈な光を放って磨耗した結果なのだ。

 

私は16歳のときはじめてこの小説を読んだけれども、容子にかなり感情移入をして読んだためどうしてこの恋愛は終わってしまったのだろうというのがわからなかった。

歳を経て、実際に容子の花世へむけたような感情をむけられたらしんどいだろうなというのはわかるようになってしまったが、それでもこの世のどこかにはこういう恋愛が危ういバランスを保ちながら成立していてほしいと思う。

容子のパーソナリティについて色々書いてきたが、彼女がナチュラルウーマンの前半の、花世との関係が成就していくときの輝きは、自分にはそういう感情があまりないことがわかった今だからこそ尊くみえる。

たとえそれが重くて耐えられないエゴの塊であったとしても、それこそが人間の感情の極みであるし、恋愛の醍醐味なのだから。